佐々木俊尚さん×松浦弥太郎さん『家めしこそ、最高のごちそうである』トークショーから得た3つの学び

佐々木俊尚著『家めしこそ、最高のごちそうである。』(マガジンハウス)
Pocket

「仕事辞めますか? それとも人間辞めますか?」

私が以前の仕事で破滅的に疲弊したとき、脳裏をよぎったフレーズです(何かの広告コピーに似ているのは気のせいでしょう)。身体を壊すほど働いてわかったのは、「これくらい働くと自分は機能しなくなるというボーダーライン」と「仕事以前に生活ができてないとダメだ」ということです。人間て、ひとまずしっかり生存しないとダメだよね?と。仕事と生存の優先順位が逆転してない?と。

そういうわけで、われわれ人間にとって「健康管理」というのは大事な“事業”なわけです。

やや大げさな書き出しにしてしまいましたが、4月22日(火)神保町の三省堂書店で行われた「佐々木俊尚が松浦弥太郎さんを招いて語る『家めしこそ、最高のごちそうである』刊行記念トークショー&サイン会」に行って参りました。佐々木俊尚さんの本は大体読んでいるというパートナー氏が、松浦弥太郎さんの本は大体読んでいる私を誘ってくれたのがきっかけです。どうやら健康管理事業の参考になりそうな香りがしましたので、二つ返事で参加することにしました。

イベントの概要

タイトルの通り、佐々木俊尚さんの著書『家めしこそ、最高のごちそうである』(マガジンハウス)にまつわるトークイベントで、18時30分から約1時間行われました。会場は80名ほどが座れるスペースで、7割くらいは埋まっていた印象です。当日はあいにくの雨でしたので、直前で参加を取りやめた人もいたのでしょう。冒頭のアナウンスでは「満席になる予定」と耳にしました。客層は30〜40代が中心でしょうか。会場は落ち着いた雰囲気でした。

『家めしこそ、最高のごちそうである』刊行のきっかけとなったのは、2013年8月に行われた「北海道大学 イノベーション・フォーラム いまこそ “家・めし” ─ちょっと未来の健康生活─」というフォーラムだったそうですが、実はこちらにも参加していました。気づけばなかなかの追っかけぶりではありませんか。

トークイベントでは数枚の写真(佐々木さんの料理や台所風景)がスライドとしてうつされましたが、ほぼ佐々木さんと松浦さんのトークで進行されました。今回はご両氏のトークの中から得た3つの学びをまとめます。

「家めし」にまつわる3つの学び

私が今回学んだこと。

  1. 私たちの味覚は退化している
    • マックのポテトで白米を食べていた友人
    • わかりやすい味で退化する味覚
  2. 「食の断捨離」で味覚を取り戻す
    • 日々をリセットするクリエイティブ・ルーチン
    • 空腹体験が味覚を鋭敏にする
  3. 楽しめれば、おいしくなくたっていい
    • 作品に触発される
    • 文脈で楽しむ
    • レシピにとらわれない
    • 目指すは長嶋茂雄的料理

ベースとなる内容は著書に書かれている内容ですので、中でも大事だと感じた点と、松浦さんとのトークで話された内容をシェアします。ついでに私の他愛もない感想や蛇足も書きますので、8,000字くらい読める忍耐力のある方はお読みいただけますと幸いです。

1. 私たちの味覚は退化している

まず印象的だったのは、うま味調味料が当たり前の生活になることで、本来人が持っている味覚が麻痺してしまう、という指摘です。著書の中では「濃い味症候群」とも書かれていました。濃い味の刺激に慣れてしまうと、より強い刺激を求めるようになりかねないというのです。

化学調味料そのものが身体に悪いわけではありません。化学調味料の問題は、化学調味料そのものの人体への影響ではなく、うま味調味料を使うと味が濃くなってしまい、素材の味が楽しめなくなってしまうということなんですね。(P.173)

ここで松浦さんがおっしゃっていたのは、

「一口食べておいしいと感じるものは、本当はおかしいのではないか。」

ということでした。よく味わって食べて、鼻を抜ける風味を感じるなどし、少し時間がかかって「あ、これはおいしい。」と素材の味を感じられるものが、本当においしいものではないか、と。

マックのポテトで白米を食べていた友人

肉好きの友人が以前、「俺、このタレの味ならごはん三杯いけるわ。」と言っていたシーンを不意に思い出しました。なるほど、それは肉というより、タレの味が重要ということだよね、と。その気持ちは私も体験的にわかります。肉の味というよりは、たしかに濃い目のタレの味でごはんが進んでいるのです。しかもおいしい気がする。安い焼肉店などに行くと、もはやタレで味をごまかされてるような気もします。

そう言えば、中学時代の友人にマクドナルドのポテトで白米を食べるという人もいました(結構衝撃を受けたのでいまだに覚えています)。ポテトと白米を同時に食べるなんて、いかにも重々しい感じがします。が、彼にとってポテトは重要ではなく、主に塩味を欲していたのでしょう。これも気持ちはわかります。あのポテトのしょっぱさ…中毒になりますよね。

わかりやすい味で退化する味覚

松浦さんのおっしゃる「一口食べておいしいと感じるもの」は、つまり、「わかりやすい味」ということだと思います。これは料理の味付けが、私たちが本来持っている味覚を怠けさせているのではないでしょうか。
タバコと一緒かもしれません。タバコを止められないのは、人間が持っているある機能をタバコが代替してしまい、本来の機能がさぼって働かなくなってしまうから(結果タバコがないと生活に支障が出てしまう)と、その昔『ためしてガッテン』で観た記憶があります。

わかりやすい味は、効率的に味を感じられる反面、調味料という媒体に依存することになります。本来は素材だけあればじゅうぶん味わえたものが、素材+調味料でないと味わえなくなってしまうのです。まるで「これ、すごいうまいよ。食べてね!」という安直な広告コピーで釣られているような気がして、これまでの食生活を反省しました。

西野カナの『会いたくて 会いたくて(震える)』で涙するのか、吉田拓郎の『外は白い雪の夜』で涙するのか、そういう感性の違いが生まれるのではないでしょうか(謎)。どちらも知っていた方がいいと思うのですが。

2. 「食の断捨離」で味覚を取り戻す

これは、そういえば意外に聞かないな、と思うポイントでした。

住まいや持ち物、衣類などを「断捨離」するというのが流行っているけども、「衣食住」のうちの「食」についてはなぜか置き去りになったままなんじゃないだろうかということ。持ち物は減らしてシンプルな生活を志向しているのに、食だけは相変わらずゴテゴテとした豪華な料理や、コンビニなどのファスト食でごまかしている人が多いんじゃないだろうかということ。(P.229 あとがきより)

流行りに流行った断捨離。衣や住の片づけは『人生がときめく片づけの魔法』がテレビドラマになるほどでしたが、食についてはあまり目にしませんね。ここで松浦さんと佐々木さんがおっしゃっていたのは「自分の軸をつくる」ということでした。時代や第三者に左右されない、自分の自信をつくるもの、といった意味でもおっしゃっていたと思います。自分にとって、日々感じられる幸せなこと、気持ちがいいこととは何だろう? ふと思いをめぐらせました。

松浦さんの場合は「夜7時には帰宅し、家族と食卓を囲む」。
佐々木さんの場合は「毎朝ジムに行く」。

お二人に共通していたのは、いずれもご本人にとって幸せであり、気持ちがいいということです。松浦さんにとっては、食事が豪盛でなくても、会話が少なくても、家族との食事の時間は幸せな時間とおっしゃっていました。佐々木さんも、時にジムに行くのがつらいと思う日はあるそうですが、いざ行ってしまえば気持ちよく、いい1日のスタートがきれるそうです。

日々をリセットするクリエイティブ・ルーチン

きっと日々の繰り返しの中でリズムをつくられているのでしょうね。

ほぼ毎日、自分にとって気持ちのスイッチが切り替わることをされていて、それで「ごちゃっとした現状」をリセットされているのではないか、と。私の場合は、夜寝る前に5行日誌+感謝したいことを書くこと。毎日書けないことも多々あるのですが、2007年頃から始めてMOLESKINEの手帳が現在12冊目です。珈琲好き三人衆でやっている「KAFE TRIO」の活動も、ハンドドリップで珈琲を淹れる時間をつくって慌ただしい日常から一旦離れ、心をリセットする…そんな時間の提案を裏に潜ませています(番宣的余談)。

daily-rituals-how-artists-work-creative-routines-rj-andrews-1
daily-rituals-how-artists-work-creative-routines-rj-andrews

24 Hours In The Lives Of The Most Creative People Of Our Time(Demilked)

以前、歴史上の人物の24時間を紹介した記事を見かけましたが、創造的なアウトプットをする人には、そのリズムをつくるクリエイティブ・ルーチン(Creative Routines)または日々の儀式(Daily Rituals)があると言われます。思い浮かべやすい例としては、イチローのバッティングフォームには一種の儀式を感じますね(一時期、昼ごはんは毎日カレーしか食べなかったという話も…)。

空腹体験が味覚を鋭敏にする

そんなリセットについてですが、食に関して佐々木さんが「鮮烈な体験」と書かれているのが断食です。この上ないリセット感がありますね。本書の中では「断食は味覚を極めつけぐらいに鋭敏にしてくれる貴重な体験」と書かれています。

本の中では伊豆高原にある『やすらぎの里』という施設での三泊四日のコースについて具体的な体験が記されていますが(P.47〜)、佐々木さんは三日目に素材の味に対する感覚がきわめてクリアになるのを感じたとのこと。「驚天動地の新体験」とも書かれており、重ねて書かれている表現を見るに、相当な衝撃だったのだなぁと感じます。よく「空腹は最高のスパイス」などと言われますが、私たちも空腹後の食事で類似の体験はいしているかもしれませんね。

以前『ホームレス中学生』で「味の向こう側」(ご飯をずっと噛み続けるとそのうち味がなくなるが、しばらく噛んでいると一瞬だけ味がする)という一節がありましたが、こちらも鋭敏になった空腹センサーだからこそキャッチできる味なのかもしれませんね。いや、ちょっと違うでしょうか。ふと思い出したので書いてみただけです。思い出しついでに書くと、大学時代にお世話になっていた(単位をいただいていたとも言う)文芸評論家の福田和也さんは『悪女の美食術』の中で「不本意な食事から空腹を守り抜く」といったことを書かれていて、えらく記憶に残っています。

私にとっての「空腹観」が今回のお話をうかがってから変わり、まぁたまには空腹もいいものだ、と思うようになりました。

3. 楽しめれば、おいしくなくたっていい

調味料の味に慣れた食生活を見直すのに「家めし」の出番となるわけですが、さぞ手がこんでいて大変なんでしょう? と思われるかもしれませんね。ですが、本書では「シンプル」な料理を提案しています。

やり過ぎの料理も、手抜き料理も、わたしはどちらもあまりセンスが良くないなあと思います。(中略)もっと大切なセンスは「シンプル」です。
使う食材は少なく安価で、手順もわずか。そのかわりに、食材の味を大切にしているので、とても美味しい。だから手軽に、時間もかけずにつくることができるような料理。(P.163)

松浦さんは、極端な表現かもしれませんが、と前置きされつつ、

「家めしは別に美味しくなくたっていいと思うんです。」

とおっしゃっていました。肩の力が抜け、勇気づけられます。

佐々木さんも「料理ってたのしいよね」を知ることがまず大切だ、と。具体的には、食に関するエッセイから刺激を得ることが多いとのことで、本でもトークでも、さまざまな本や作家の名前が飛び出しました。お二人が好きだという作品で真っ先に出てきたのは、ジョン・スタインベックの『朝めし』という小説(『スタインベック短篇集』に収録)。文庫で5ページしかない超短編だそうです。

スタインベック短篇集

『家めし〜』でもあらすじの紹介がありました。いい雰囲気だなと感じたのは以下の部分です。

パンにベーコンの汁をかけ、舌が火傷しそうに熱いコーヒーに砂糖を入れる。
「老人は口いっぱいに頬ばって、ぐしゃぐしゃとかんでは、のみこんだ。それからは彼は言った。『こいつはうめえや』そして、また口いっぱいに頬ばった」「みんなすばやくがつがつ食い、お代わりをして、またがつがつ食った。そのうちに、腹がいっぱいになり、体があたたかくなった。熱くにがいコーヒーが咽喉を刺激した。私たちはコーヒーかすのたまったわずかばかりの飲み残しを地面に投げ捨て、またカップにコーヒーをついだ。」

香ばしいベーコンと焼きたてのパン、それに熱くて苦いコーヒー…文字から香りが立ち上ってくるようです。極めてシンプルでありながら、じつにうまそうですね。「美味しそう」というより、「うまそう」という方がしっくりくる感じ。

作品に触発される

ここで私もインテリジェンスあふれる文学作品から引用を披露したいところですが、残念ながら思いつくものがありません。強いて言うなら、私の場合は『ドラえもん』です(ドヤ。

他愛もないシーンなのですが、のび太が「揚げたてのソーセージはうまいなぁ」とつぶやきながらソーセージを食べているシーンがたまらなくおいしそうに見えました(ちなみにジャイアンに横取りされる運命)。そのシーンが目に焼きついた小学生時分の私は、食卓に並ぶソーセージに爪楊枝をさし、「揚げたてのソーセージはうまいなぁ」と脳内再生しながら食べていた記憶があります。実際、『ドラえもん』以前よりもはるかにうまいと感じていました。恐るべき効果です。

その他、『ドラゴンボール』に触発されて、ピーナッツを「仙豆」に見たてて乱れ食いした過去なども思い出されます。私のように漫画に触発された過去をお持ちの方は少なくないでしょう。私が小学生の頃は『美味しんぼ』や『ミスター味っ子』、『OH!MYコンブ』など。

懐かしみながら調べていたのですが、『OH!MYコンブ』の原作は秋元康さんなんですね。しかしあの漫画で出てくるレシピは子ども心にもえぇ?と思っておりました。あまりあたたかくないごはんに砕いたベビースターをまぶし、マヨネーズをかける、というような…。もし家で試そうものなら、「お百姓さんにコブラツイストをお見舞いされるわよ!」などと叱られていたことでしょう。検索していたら「軽い拷問に使えます。」などという評もありました。
・・脱線しましたね。

この手のお話は映画などにも触れれば話が尽きなくなりそうですが、自分の自炊欲スイッチを入れる作品を棚卸ししてみるといいきっかけがつくれそうです。

文脈で楽しむ

私のくだらない話はどうでもいいのですが、トークショーの中で佐々木さんが「自宅で午前中にひとり日本酒を飲みながらつまみを食べていると、ああ、何かいいな〜と思う」といったエピソードもお話されていました。私はそれほどお酒を飲むクチではないのですが、そういうシーンはたしかにいいな〜と感じます。

料理そのものをがんばるのもいいですが、料理をどういう文脈で楽しむか?も考えるとよさそうですね。天気のいい日におにぎりやサンドイッチを簡単につくって持って行ってみるとか、そういう設定をつくるだけでも自分でつくるモチベーションはアップしそうです。

そう言えば小学校低学年くらいのとき、農園に行って野菜を収穫するという行事が何度かありました。小松菜やじゃがいも、さつまいもを収穫した記憶があります。泥だらけになって収穫した野菜を、その夜、家で親に料理してもらうわけですが、味はともかく、格別な味だったと今でも覚えています。さつまいもは学校の校庭で焼き芋にしたこともありました。もはや味うんぬんというより、料理になる前段階からのプロセスが味わいになっていました。みなさんも似たような体験はあるのではないでしょうか?

素材の旬を知る、というのも文脈で楽しむ方法と言えますね。本の中でも、旬の食材を使うことがすすめられています。旬の食材は検索すればいくらでも出てきますが、世界観も素敵なのは、平凡社が出しているスマホアプリ『くらしのこよみ』です。無料版は過去にさかのぼれませんが、今の旬を知ることができる素敵なアプリです。

『くらしのこよみ』

『くらしのこよみ』(iPhone版Android版

ちなみに2年くらい参加しているクローズドの某私塾では、飲み屋に行くよりも、自分たちで食材を買ってきて、人の家で、みんなで料理して楽しむ、というようなスタイルで何度か会合をしています。私は大体助手になるわけですが、得意な方もやはり何人かいらっしゃるわけで、いろいろな家庭の料理を味わえてたのしめます。それにつくってくれた人の目の前で消費すると、食事のありがたみを一層感じられます。

レシピにとらわれない

一人暮らしをしてもろくに自炊する習慣がつかなかった私ですが(起きている時間はほとんど会社だったからかもしれませんが)、フリーランスになってからは時間の融通が比較的つくようになり、パートナー氏と自炊をすることが増えてきました。人と料理すると早いし、なかなか楽しめます。

しかし先方はなかなかざっくりなところがあり、レシピの材料の◯◯がないとなると、「まぁなくてもいいんじゃない?」とか、白砂糖が切れていると、「黒砂糖でいいんじゃない?」とか、そんな感じです。当初は、「(え、大丈夫なのかな…)」と内心思うところはありましたが、まぁたいていは平気なものです。シチューをつくるのに牛乳がない、というシーンではさすがに買いに行かされましたが出かけましたが。

レシピはひとつの基準ではありますが、絶対ではありません。いかにもおいしそうな秘伝のレシピも、自分の口にあうかはわかりません。佐々木さんもその点はトークショーの中でいくつか例をあげられていました。

例えば、パスタを茹でるときに塩を入れるというのは定番ですが、多少入れたところで味なんてほとんど変わりません。これまた『ためしてガッテン』で観ましたが、相当な塩の量を使わないと実際変わらないようです。凝ったお店ではちゃんと塩たっぷりのお湯が別でスタンバイされており、そこをくぐらせて茹でられているようですよ。家ではそんなことできないですよね…。

麺つながりで、焼きそばも水を入れるのが定番ですが、これもいらない、と。水をいれるとベチャッとなってしまい、あまりおいしくないのです。こちらは本に書かれているつくり方を参考にして水なしで実践してみましたが、正解でした。水なしの方が麺の食感がしっかりします。レシピは絶対ではないのですね。むしろ余計なことをしてしまう可能性もあるというのは盲点でした。

目指すは長嶋茂雄的料理

松浦さんは『暮しの手帖』編集長ですので、誌面で頻繁にレシピを掲載する立場に関われています。ごく稀にレシピの分量を間違えて記載してしまうこともあるそうで、読者の方から「どうしてもしょっぱくできてしまう」といったお便りが寄せられることもあるそうです。本当は「ここでしょうゆをシャーッと入れます」のような、ざっくりしたレシピにしたいこともある、というようなこともおっしゃっており、会場の笑いを誘っていました。長嶋茂雄的レシピ、いいかもしれません。

実際、私の周囲で料理上手な方は分量をきっちり計ったりしませんし、それゆえに素早く何品も仕上げてしまいます。もはや感覚的な境地に達しているのかもしれませんが、その調理の身体性というべき感覚は憧れます。材料や調味料の分量を正確に決め、理科実験のように料理する方向性もあると思うのですが、普段の自炊を考えると手間は少ないほうが続きそうです。

実はパートナー氏と私も『暮しの手帖』の別冊のレシピをひとつの基準にして自炊をしており、ある程度まじめに分量を図りつつ調理しています。案の定、時間はかかりますね。何品かつくっていると、毎回1時間近くは費やしてしまっている感があります。味もやはり自分たちにとって最適か?を考えると調整の余地はあり、レシピに分量の調整メモをちょいちょい書き足しています。レシピを自分用にアップデートしていくのはなかなかよいですよ。トークショーの中でも佐々木さんがおっしゃっていましたが、レシピには著作権がないのだそうです(余談)。

まとめ

『家めし〜』のメッセージは、「不確実な時代だからこそ、生活だけでも構築的に生きていこう。生活も不確実では依拠できるものが何もなくなってしまう。」です。

私は前職がそこそこハードワークで、朝は適当なパン、昼はコンビニ、夜はなか卯、場合によっては深夜に一風堂、そんな生活がスタンダードでした。もう起き上がれないレベルまで消耗した時期には、なんでこんなに働いてるんだ?とさすがに深く考えた次第です。幸せとは何ぞや?と哲学者きどりでまじめに考えたこともあり、行き着いたのは「大切な人たちと普通にごはんが食べらればそれでいい。」でした。何かあっても、そこを守れればきっと再起できる、と思ったのです。

当時はマズローの欲求5段階説で言う、最下層の「生理的欲求(食欲、性欲、睡眠欲)」がことごとく侵されていました。極端な話、人として終わりつつあったのかもしれません。冒頭で「仕事辞めますか? それとも人間辞めますか?」と書いたのは、これが理由でもあります。仕事は嫌いではありませんでしたが、会社の仕事以前に、人間としての仕事をちゃんとせねば、と前職からは身を引きました。

マズローの欲求段階説

マズローの欲求段階説(Wikipedia)

私にはそういった背景もあり、「生活を構築的に」というメッセージには共感をおぼえました。会社をやめてからだいぶ人間に戻ってきましたが(大げさ)、食、特に自炊(家めし)に関しては遅れをとっていたので、今回のトークショーは有意義でした。まずは食の断捨離をし、いい意味で適当に自炊を楽しんでいこうと思います。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。

佐々木俊尚さんからいただいたコメント(ツイート)

ブログ用メモ

佐々木俊尚著『家めしこそ、最高のごちそうである。』概要

第1章 バブルを経てわかった結論。家の料理が一番の贅沢。
第2章 道具はシンプル、食材は旬のもの。お金をかけずに、続ける方法。
第3章 食材をまず決め、7種の味から、違うものを選ぶ。最後に調理法。
第4章 手順も大事。さらに美味しく食べるための実践ポイント。
第5章 ひと手間で美味しさアップ。我が家で人気のレシピのコツ。

参考情報

HONZ【連載】『家めしこそ、最高のごちそうである。』
本の大筋の内容が太っ腹にも公開されています。レシピも4つほどありますので、少し興味があるという方はまずこちらをご覧いただくとよいです。

参考図書

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です